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【陸上】寺田明日香選手(陸上女子100mハードル日本記録保持者)インタビュー【前編】
12秒97。日本女子陸上ハードル競技で、これまで破られることのなかった13秒台の壁がついに飛び越えられました。
その記録の一年前、彼女が立っていたのは陸上のトラックではなく、7人制ラグビーのグラウンドでした。
今日は、そんな多才な彼女を育てたジュニア時代に迫っていきます。
1990年1月14日生まれ 北海道札幌市出身。
小学校4年生から陸上競技を始め、小学校5年、6年時、全国小学生陸上100mで2位を記録。高校1年から本格的に100mハードルに取り組み、2005~2007年に全国高校総体(インターハイ)女子100mハードルで3連覇を果たし、3年時には100m走・4×100mリレーと合わせて3冠を達成。
高校卒業後の2008年、初めて出場した日本選手権では同種目史上最年少で優勝し、同大会で3連覇を果たした。
2009年には世界陸上ベルリン大会に出場、アジア選手権では銀メダルを獲得。同年の世界ジュニアランキング1位の13秒05を記録した。2010年にはアジア大会で5位に入賞。その後相次ぐ怪我・摂食障害等から2013年に現役を引退。
結婚・大学進学・出産を経て、2016年夏に7人制ラグビーに転向する形で現役アスリートとして復帰。同年12月の日本ラグビー協会によるトライアウトに合格し、2017年1月からは日本代表練習生として活動した。
2018年12月にラグビー選手としての引退と陸上競技への復帰を表明。2019年6月に行われた日本選手権では女子100mハードルで3位を記録。 8月には19年ぶりに日本記録と並ぶ13秒00をマークし、9月には12秒97の日本新記録を樹立して10年ぶりに世界陸上に出場を果たした。
【アスリートナビゲーター・田中大貴プロフィール】
兵庫県出身。1980年生まれ。 兵庫県立小野高校卒、慶應義塾大学環境情報学部卒。
大学時代は体育会野球部に所属し、東京六大学でプレーする。
2003年~フジテレビに入社し、アナウンサーとして勤務。 「EZ!TV」「とくダネ」「すぽると」「HERO’S」、スポーツ中継等を担当。 バンクーバー五輪、リオデジャネイロ五輪現地キャスター。
2018年~独立し、スポーツアンカー、フリーアナウンサーとして活動中。 番組MC、スポーツ実況、執筆連載などメディア出演の他にスポーツチーム・団体・企業とのビジネスコーディネーション、メディア制作、CSR活動イベントの企画・運営も積極的に取り組む。
幼少時代について
本日は宜しくお願いします。寺田さんは2019年、100mハードルで日本記録を樹立されました。ラグビーも経験されていますが、これまでいろんなスイッチを切り替えながらここまで来られたんだろうなと思います。自分を振り返ってみて、子供の頃の性格やタイプはどうでしたか?
子供の頃は、ほぼ男の子みたいでした(笑)。近所に住んでいる仲良しの男の子たちと一緒に虫を取ったりとか。実家は北海道なんですけど、地域のおじいちゃんおばあちゃんがすごく優しく見守ってくださって。
家と家の間の塀を登ったりとか、そういうことをしても怒らないでいてくれました。雪が積もった地面に屋根から飛び降りたりとか、そういうことをして遊んでいたので、母は「この子は男の子なんだな」と思って育てていたようです(笑)。
動いて、走って、泥んこになってといったような事が好きだったんですね。走ることが好きになったきっかけはあったんですか?
走ることは元々好きでした。うちの両親は陸上選手だったんですけど、割と外に連れ出してくれることが多かったので、一緒にボールを使って遊んだりとか公園で一緒に鬼ごっこをしてそこで好きになりましたし、幼稚園の運動会では速い方だったので、それで一番を獲るとやっぱりいろんな方が喜んでくれるじゃないですか。それで走るのって楽しいなって思いました。
では本格的に陸上のトレーニングをやって大会に出るようになったのは小学校からですか?
小学校4年生からです。母は元々短距離走の選手だったんですが、最初に始めたときは母が指導者としてコーチングしてくれていました。他に生徒がいたとかではなく、完全に1対1の個人指導でした。練習はとにかく厳しかったですね。
お母さんに最初に陸上を教えられた時の事は覚えていますか?
そうですね、割と最初は長い距離から入ったんですよ。まず体力を付けなさいって。20分走っていうのがあったんですけど、家の周りを20分間ジョグするんですよ。20分間走ってから、何秒で家まで戻ってこられるかっていうのがあって。
10歳で初めてすぐくらいの時に…
20分間走った後にですよ、全力で走ったあとに戻ってこいっていうんですよ!何本も走った後に。それがすごく辛くて。
スパルタですね。ときには泣くこともありました?
ありましたありました!もう寝たふりしたりとか、お腹が痛いと言ってみたりとか何回もあったんですけど、母はもう揺るがずに「はい行きますよ」という感じで。
最初のきっかけとしては、寺田さんが小学校のときに陸上をやりたいといったんですか?
陸上を始めたというか、大会に出たのは、母方の祖母が陸上をやってる私を見てみたいということで母と祖母が申し込んで出場したんですが、その大会で札幌市部2位だったんですよ。それで全道大会に出場するにあたって「そんな無様な走りをしていいわけ?」という雰囲気になり、練習を始めるという感じになったんですよ。
同じ短距離走のアスリートだったお母さんからは、マインド面ではどういった風に影響を受けましたか?
もう本当にやるんだったら手を抜かずにちゃんとやりなさいということと…それくらいかな。あとは「自分に負けるんじゃない」という感じですね。
もう自分との勝負だ、と。そういうのは自分の中でも理解していましたか?
いやもう全然分からなかったです(笑)今なら分かるんですけどね。当時は何を言ってるんだ、もうつらいと。私は漫画を読みたいんだ、みんなと遊びたいんだと。
日曜から土曜まで一週間あって、小学校4年生の時はお母さんとどれくらい練習していたんですか?
母親とやっていたのは…水泳もやっていたので、週4くらいでやっていましたね。水泳が無い日に。
水泳はいつやられていたんですか?
水金の週2で行って、あとは陸上でした。
水泳が週2で週4は陸上。休むのに1日。きついですね!それは小学校が終わってから放課後に行ってたんですか?
陸上の練習をする日は、習い事をやってなかったので、友達と遊んでからその後です。
じゃあ夕方くらいまで友達と遊んで家に帰って、ご飯を食べる前くらいからですか。
そうです、5時半から6時位から暗くなりはじめたあとに「はいじゃあ行くよ」って。小学校のグラウンドか、大きい公園か、家の周りをぐるぐる走るような感じでした。
すごいですね。今考えると、お母さんのそのパワーってものすごいと思いませんか?
すごいと思います。よくそこまでやろうと思えたなっていう風に思います。
今お母さんと話して、あの頃のことをしゃべるとどんな雰囲気ですか?
なかなか話す機会はないんですけど、今母親になって思うことは、母親が言ってた事と同じで「やるんだったらちゃんとやりなさい」ということと。
それと私が陸上を始めたことで、ずっと陸上クラブに入ってやってきた子たちで、私に負けて全道大会に行けなかった子がいて、その子達に失礼の無い走りをしなきゃいけない、というのはすごく思っています。
母はそういう風に考えていたんじゃないかなっていうのは思います。
小学校の時の成績について教えていただけますか?
小学校では全国大会に出場しました。4年生ではじめて、全道大会(北海道大会)4位だったんですけど、5年生6年生は全国大会で2位でした。
全国2位はすごいですね!それでは北海道の大会でも優勝をされていたんですね。その時は100m走ですか?
はい。当時は100m走でした。ハードルに行ったのは高校1年生からですね。
中学時代の成績はどうでしたか?
中学は怪我が多くて、実は個人では全国大会に出られなくて、北海道代表でリレーで一度全国大会に出ているだけです。
高校に上がってからまた伸びていったんですね。
100m走からハードルに切り替えるのに勇気がいるかなと思うんですが、その辺のスイッチの切り替えのきっかけは何だったんですか?
高校の指導者の先生が「ちょっとハードル飛んでみろ」といって、やってみたら飛べたので「じゃあこの3年間は100mと100mハードルで行こう」と言ってくださって。そこからです。
その時はお母様はどんなアドバイスをされていたんですか?
その時はもう全然…小学校5年生の時にクラブチームに入ってからは、何も技術に関しては口を出さなくなりました。
「ハードルやるの?大丈夫」くらいでしたね。
よくお母さんによく言われていたことはありますか?こんな事をよく幼少期、小学校中学校時代に言われていたなということは…
「人に迷惑をかけるな」とは。。(笑)
人間として基本的なことですね!(笑)
そうですね。でも私がやりたいと言ったことは基本的にほとんどやらせてくれました。なので陸上もそうだったし、あとは水泳とかソフトテニスとか。本当に色々やりたいといったことはやらせてくれました。そこは今も本当に感謝していて、私の子育てにも活きているかなという風には思っています。
陸上じゃなければならなかった理由というのは何かあったんですか?
早くに結果が出たからというのはありますね。
みんなが喜んでくれるし、それを見て喜べるしという。それがなかったら別競技をやっていた可能性はありますか?
ありますね。水泳と陸上を並行していたんですよ。水泳は小1から小6までずっと自由型をやっていました。
それを6年間。陸上と並行しながらやっていたと。結構大変なスケジューリングじゃないですか?
結構大変だったと思います。でも楽しみながらやっていたので、そんなにつらいなーということはなかったです。
水泳競技を6年間やっていたことは陸上に活きていますか?
活きていますね!私は小児喘息を持っていて、肺活の部分を強くするために水泳を始めたんですけど、そのおかげで陸上をやっていても喘息の発作ってそんなに出なかったんですよね。そこはまずすごく活きているなと思いますし、身体の使い方って水と陸とで全然違うのでいろんな動きができるようになったのも、(陸上以外に)いろんなことをやってきたからなのかなと思っています。
急激にタイムが伸びた時期ってありましたか?
ありますね。やっぱり中3高1あたりは100mだと1秒近く違っていました。中学校3年のときは12秒7でしか走ってないんですけど、高1で11秒94まで行ってました。
1秒違うんですか!何があったんですかね?
何があったんですかね(笑) でもすごく練習の内容が変わって。中3の冬くらいから高校に少し顔を出していたんですけど、その頃から速い動きというのをすごいやるようになりました。それまではずっと長い距離を走っていたところから、短い距離ですごく速く身体を動かすというのがメインになっていったので、そこは変化が大きいかなと思います。
それだけタイムが上がったのに、ハードルに行ったのはどうしてですか?100mで勝負しようとはならなかったんですか?
高校3年間は100mでもちろん勝負していく、かつハードルでも勝負していくという2つの柱があって取り組んでいたんですけど、ハードルも100mの中でハードルを10台飛んで位置についてよーいどんして誰が一番速いかを競う競技なので、そもそも100mが速くないと行けないし、100mの速さを持っているんだったらそれはアドバンテージになるという風に考えていたので、どっちもやっていこうと思っていました。
陸上の世界について
ジュニア時代は同じように陸上を続けていても、タイムが遅い人は陸上を辞めて速い人だけが生き残っていく世界なのかなと思っています。その辺り、やはり陸上というのは厳しい世界ですか。
そうですね。やはり大人になってくると、続けられているのはそういう限られた人...実業団に入ったりとか大学まで陸上をやってきた子たちとかになってくるんですけど、その中でもトップオブザ・トップって、一人か二人しかなれないものじゃないですか。ただ、その他の人たちって、やっぱり陸上が好きで、勝ち負け以外にも陸上の楽しさや魅力を感じながらやっているんです。
私も一回ラグビーをやって、また陸上に、やめた陸上に戻ってきたんですけど。その時に勝ち負け以外にも楽しい部分があるなって思って戻ってくることができたので。そういういろんな魅力が陸上競技には詰まっているかなって思っています。
当時、かけっこをやって泥んこになって男の子たちと遊んでいたときに、オリンピック候補にまでなると思っていましたか?
全然全然!その時は思ってないです!全く思ってないです(笑)もう本当トンボを捕まえていたような感じなので。
これまでを振り返っていくと、いろんなきっかけとかターニングポイントとかヒントをもらったシチュエーションってあったなと思いますか?
そうですね。まず陸上を競技として始めようと思ったのが小学校の時点でしたし、クラブチームに入って先生方にすごくよくしていただいたということもありますし。今の私がいるというのもいろんな人たちにいろんな事を教えてもらって、いろんな経験をさせてもらえたおかげでここにいると思うので。たくさんあったかなあと思います。
陸上の魅力って、小学校から中学校に、高校、大学に行くにつれて上がっていきましたか?
そうですね、いろんな世界が見られるっていうこと、いろんな人に会えて世界が広がるっていうのはやっぱりこう増えていったんですけど、でも自分の根底にあるのは位置についてヨーイドンするっていう「かけっこ」なので、そこは今は変わらずやれているかなっていう風には思いますし、それが無くなったときに陸上を嫌いになったので、そこはすごく大事にしたいなと思う部分ですね。
嫌いになったことがあるんですか?
ありますあります、一回辞めてますから。怪我とか病気とか色々重なって。でそうなると、もう陸上が嫌いになって、陸上競技場に来るのも嫌なくらいになりました。
それは何歳くらいのときですか?
21から23くらいのときですね。
そういう心境になって、復帰後はラグビーに行ったわけですね。でもまた陸上に戻ってこれた理由ってなんですか?
ラグビーを通して本当にいろんな練習をやったんですけど、ラグビーっていろんな要素があるんですよ。タックルするとかボールを獲るとかキックするとか走るとか...その中でどれが一番楽しいかなって考えたときに「走る」だったんですよ。誰かを追いかけて走る、誰かに追いかけられて走る、そこでトライを取るのがすごく楽しかったので、やっぱり走ることが好きなんだなっていう風に再認識できた瞬間がいくつもあったので、やっぱり陸上に戻ろうかなっていう風に思えました。
そういう陸上にもう一回陸上に戻りたいっていう気持ちが生まれたから、日本記録が出たっていう感じはありますか?
そうですね、子供の頃の「かけっこ楽しいじゃん!運動会楽しいじゃん!」って思っていた自分が戻ってきたので、そこでやっていたからこそ記録に結び付いたんじゃないかなと思います。
進路の選び方
中学から高校に上がって行くとき、進路を考えると思うんですけど、どういう基準で選んでいましたか?
基本的には陸上をメインで選んでいました。小学校から中学校は地元に行ってるので選ばずに行ってるんですけど、高校に関しては陸上が強くて、女子を強くしてくれる先生の所に行って、その後は、そこに敷かれたレールを進んでいる…みたいな感じでした。
でもキャリアについては色々考えていて、陸上をやめた後に色々やりたいなとは心の中に思っていたので、その通りに出来たんじゃないかなと思っています。
勉強もうまく並行しながらするのって大変だったと思うんですけど、その辺は自分ではどう考えていらっしゃいますか。
勉強は競技に結びつく考え方とかがあったので、そこはすごく楽しくできていて。結びつかないんじゃないかなと思うのはやっぱり出来ないんですけど。
それこそ物理とかは陸上競技に繋がるものがあるので、すごく興味があって。「あ、これ前に進むためにはここをこうしたらみたいな自分の身体を使って…」みたいな。。
全くわかりません(笑) じゃあ物理の数式をみながら「これは陸上に通ずるな」とか…
はい、それを想像して物体が動くためには…みたいなことを図書室で考えながら、頭のよさげな子に聞いたりして…
陸上選手でそういう方っていらっしゃいます?「Gのかかり方とか入射角は…」みたいな…
いますいます!男子の方は多いと思いますよ。小池くんとか桐生くんとかは考えていますし。あと走り高跳びの戸邉くんなんかは完全に研究者ですね。
じゃあやっぱり勉強も陸上に活きますよっていうのは体験してきているんですね。
食事について
幼少期から、トップ選手になっていくにつれて身体をきちんと強くして、速く走れる身体にしていくためには食事のことを考えると思うんですけど、小中高生の時は食事に対してどういう風に考えていましたか?
小中高生の時は基本的に母がご飯を作っていてくれたので、出されたものは食べるっていうのは思っていました。
あまり量は食べない方なんですけど、高校生の時は動いてるし育ち盛りなのでガッと食べた時期はありましたけど。やはり朝昼晩しっかり食べて食事は抜かない、というのはすごく大切にしていました。
速く走れる身体を作るために、子どもたちやジュニアアスリートはどういうものを食べるのがいいと思いますか?
好き嫌いはあると思うんですけど、基本的には彩りある食事を食べてもらうといいのかなと。野菜はそうですし、ご飯ももちろんそうですし、お肉、フルーツ、乳製品…
料理を見て、ああ今日のご飯はすごく美味しそう!っていう風に感じれば、ほとんどの栄養素は揃っているはずなんですよ。
母親として、娘さんにはどういう食事を提供したいなと考えていますか?
そうですね、やっぱり三食抜かずにはいてほしいなと思っていて。なかなか朝忙しい時にガッと揃えるのは難しかったりするんですけど、少しずつでも栄養のあるものを取っていくっていうのは気を付けていて。なかなかフルコースっていうのをドーンと出すのは大変だと思うので、少しずつでも彩りある野菜を入れられるようにっていうのはしています。
やっぱり、確実に家庭での食事は陸上のパフォーマンスにつながりますか?
繋がります!もうその日の試合だけじゃなくて、その前段階でトレーニングがありますし。トレーニングをしっかり積めるような身体を作っていくっていうことが試合の日に繋がるという大きなことだと思っているので、まずしっかり練習できる、トレーニングできる身体を作るのは、食事と、睡眠。
食事と睡眠もトレーニングのひとつということですね。ありがとうございます。
<インタビュー後編へ続く>