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【野球】川﨑宗則選手(元メジャーリーグ・元福岡ソフトバンクホークス)インタビュー【前編】
2006年3月2日、WBCワールド・ベースボール・クラシックにおいて、日本が野球で世界一に輝きました。
彼はその日、神の手と称されたプレーで勝利に貢献し、世界の頂点を経験。
その後アメリカへと渡り、メジャーリーガーとしてワールドシリーズ制覇という偉業を成し遂げます。
球界では唯一無二。そんな彼のジュニア時代を紐解いていきます。
幼少時代について
本日はよろしくおねがいします。今年一年はどんな風に過ごしていますか?(インタビューが行われたのは2020年6月)
自粛と、自粛と…自粛ですね。身体は動かしていたので、家の中でもできることをやりながら。走ったりとかしています。かなり体調はいいですよ。
川﨑選手はジュニアアスリートという言葉を聞いてどう思いますか?
最高ですね!スポーツをしていてもしていなくても、子どもたちはみんなアスリートだと思っています。
川﨑選手ご自身も子供の頃はジュニアアスリートだったと思いますか?
僕は身体を動かすのが大好きで。野球も好きだったんですけど、サッカーやバスケも好きでした。当時は空手をやっていたんですけど、とにかく身体を動かすのが大好きで、身体を動かしてよく食べて寝る、という生活を送っていました。
最初から野球一筋というわけではなかったんですね。
父親の影響で幼稚園の頃から空手をやらされていまして。父親は柔道と空手をやっていて柔道は黒帯を持っていたんですね。そういうこともあって、小学6年生まで7年間やっていました。野球は3年生の終わりに始めたので、練習は空手と平行してやっていました。
でも、野球の大会と空手の大会がかぶると、空手の大会を絶対優先させられていました。僕は野球に出たかったんですけど、父としては空手をやらせたかったみたいです。
お父さんは空手の選手になって欲しかったんでしょうか?
僕は喘息持ちで呼吸器系が弱かったんです。空手で足の裏を鍛えたりすることで呼吸器系が強くなると父は考えていて、それで空手をやったほうが良いと言われてました。
空手を優先されていたとのことですが、野球は両立出来ていたんですか?
6年生になると野球でキャプテンになったので、空手の練習スケジュールと重なるから野球にいけませんとなると、キャプテンなのでチームが困ってしまうわけで。そしたらその時の監督さんが家に来て野球を優先してくれるよう父に直談判してくれたんです。
内心では「これで空手を辞められるかな…?」と内心思っていたんですが、「空手には夜の部もあるから、野球の練習の後に夜の部に行け」と言われまして…(笑)夕方からの野球の練習を終えた後に、バタバタしながら家に帰ってユニフォームから空手着に着替えて行くんです。それはきつかった!これは体力的に無理だとなって、途中から空手はサボっていました。子どもの時って、自分の身体が限界だって分かっているんですよね。だからこれ以上運動をやると危ないと察知して、休むようになるんですよ。
子どもの頃はどんな性格でしたか?
どうだろう?僕はこのままだと思うんだけどね。元気いっぱいで遊ぶことが大好きだったし、毎日みんなで遊ぼうぜって感じの性格でした。
お兄さんがいらっしゃると伺っていますが、お兄さんからの影響はありましたか?
最初に野球をやりたいと思ったのは5つ上の兄貴の影響だったんです。兄は僕が1年生の時に6年生で、野球部に入っていました。兄の試合を見て野球のルールを覚えたり、野球部の雰囲気を知ったりしました。兄が試合に出場していた時の9人の選手が僕にとっての最初のヒーローでした。
野球を始めた時からプロ野球選手になりたいと思っていましたか?
その時はプロ野球とかは全然知らなくて、「このお兄ちゃんたちみたいになりたい!」というきっかけでボールを壁当てしたり、お兄ちゃんたちにキャッチボールをしてもらっていました。小学4年生、5年生の時にテレビで父親が見ているプロ野球を見てプロになりたいなとは思いました。でも一番最初のきっかけは兄の参加していたチームを見たという体験ですね。
川﨑家のルールはありましたか?
空手を辞めるなとは言われていましたけど、何時までに帰ってこいとか勉強しろとか、あまり他に言われたことはなかったですね。
高校に上がっても、毎日部活に行って泥まみれになって、帰宅するのは22時、23時くらい。そこからご飯を食べて寝るだけ、みたいな生活でした。
高校時代の恩師について教えていただけますか?
高校時代の恩師に上原先生という方がいたんですが、彼にはいろんなことを教えてもらいましたが、中でも一番大事だと思うのは「自分で考えなさい」ということですね。上原先生からは技術的なことを特に学んだというわけではないんですが、ミーティングの内容がひとつひとつかっこよかった。高校生に向かって「家では味噌汁とご飯を食べていても外ではしっかり金を出して見栄を張れ」とかね(笑)高校生とかにですよ(笑)
でも、お客さんに対してもてなしの心を持つこと、お客さんを喜ばせることといった考え方は自分にかなり影響を与えていますね。
この考え方は今に活きていますか?
間違いなく活きていますね。高校時代の3年間を彼に教わって野球が大好きになったし、プロテストを受けて野球選手になろうと思う自信を起こさせてくれたのも彼のおかげでした。
今スポーツを頑張っている子どもたちに何かアドバイスをお願いします。
今の子どもたちは、何に対してもあまりにもいい子すぎると思うんです。楽しむために失敗を恐れずどんどん思い切ってやってほしいと思います。
こういう言い方はよくないのかもしれないけど、大人になってから、社会人になってから髪を染めるじゃん?そんなの中学高校でやっとかないと。若いうちにやっておくのがいいと思うのよ。子どもたちが髪を染めたくらいで社会は崩れないでしょ?もっと自由に若気の至りをやらせておけば、大人になった時にもっと見えてくるものがあると思うの。もっと子どもたちに自由を与えてほしいなと思うよね。
ジュニア時代の練習方法について
川﨑選手は本当に声がよく出ていますよね。小さい時から声出しはされていたんですか?
空手ではすごく声を出していましたね。逆に野球の時は出すタイミングが最初はわからなかった。野球って、いろんな場面で声出しのタイミングがあるのね。一番大事なのが指示をする時。守備の時のオーライオーライっていう声とかは怪我の防止にもなるし。
子供の時は地元でどんな練習をしていましたか?
僕の練習の基礎は壁当てでした。朝から晩まで壁当てしていましたね。
何を意識して壁当てしていたんですか?
壁に当てると返ってくるのがすごい楽しくて、いくらでも遊べるじゃん?文句とか言わないし。ワンバンで当ててフライにしたりとかね。ボールを当てる位置によって返ってくる位置が変わってくるのがとても今に生きています。
もちろん素振りもやっていましたけど、バットを振るのはきつかったね。何をイメージしてバットを振ったらいいのか、最初は全然分からなかった。
壁当てをやって、今に活きていることはありますか?
ありますね。壁当ては、5m~10mの近い距離でやっていたんです。今は、近い距離でやるのがすごく大事だっていうのが今になって分かってきた。大人の世界でいうとホームから1塁までは27.4mなんです。でも27.4mはノーバンで投げなくてもいいルールなんですね。
だから、例えば少年野球だったら16mの半分、10mくらいの距離でいいからしっかり投げられればいいんです。逆に遠投はできなくてもいいと思っています。
小中高生の時にバッティングの練習で意識したことってありますか?
ボールを打つ時の衝撃に対するストレスをどうするかですね。素振りのときはいいけど、ボールを打つときには衝撃がある。対策としてはまずバットに慣れること。そしてボールを打った時の衝撃に慣れることです。衝撃になれないうちは打球は飛びにくいけど、高校に上がって筋力が付いたら飛ぶようになるから。
小学校のうちにボールが飛ばないのは当然なんです。その時期に打球が伸びないからといって技術的な事を詰め込んで覚えさせようとするのではなく、ボールとバットに慣れさせるようにしてください。
幼少期にフィジカルでも体幹でも、こういうトレーニングをした方がいいというのはありますか?
短い距離を走るのはいいかもしれない。例えば長距離をずっと走るのも悪くないんだけど、野球選手っていうのは短い距離を走って休むの繰り返しなんだよね。
短い距離っていうのはどのくらいの距離ですか?
10m~20mくらい。例えばホームから一塁までの距離は16mあるから、その16mを走る練習をしたりね。その中でベースを速く走る練習をする。小学校の頃は毎日ベースランニングをやっていました。今は長くゆっくり走らせる人が多いけど、あれは熱中症になる危険性もあるし、身体の筋肉が細くなって、野球に向かない身体になっていっちゃうんですね。
メジャーでも短距離の練習をされていました?
メジャーでもそうでした。短距離の練習をずっとしていましたし、今でもしています。走ることは大事だと思う。走ることで動体視力も鍛えられるんです。でも、走り方によっては筋肉を削ってしまう。短い距離をギュッと凝縮させて走るようにしなければいけない。こういう短い距離を走ることをスプリントっていうんですけど、野球選手が走る時は、ランニングではなくて、スプリントをしなければならないんです。